御笠間薬(おんかさまやく)
家康が出陣にあたり、暑気あたりや霍乱よけに藿香や益智、乾姜を配合した薬を笠の裏に隠して用いていました。また寛中散、銀粒丹、真効油、万病丹など自分で調整し配下の諸侯に分け与えていました。
大変医学については熱心で李時珍の《本草綱目》を取り寄せていますし、名医片山興安、吉田宗恂を招いて《千金方》の講義を受けています。
寛永16年(1639)、春日局が日光に奉納した「東照大権現祝詞」に医者もさじを投げた三歳の家光の病気を家康の薬でたちどころに本復したとあります。
晩年は各種の薬草、薬木の栽培を行わせていますがこれが「駿府御薬園」(静岡県 葵区安東)です。
曲直瀬正淋から将軍秀忠に献上された《和剤局方》も家康に贈られています。
江戸時代は薬業も栄え、大阪の道修町(どしょうまち)、江戸の本町(ほんちょう・日本橋本町)には薬種問屋が多くありました。今でも製薬会社の多くは本社が道修町や日本橋です。
また多くの売薬が誕生しています。
小田原の「ういろう」は二代目市川團十郎が歌舞伎の舞台で「外郎売」を演じて、爆発的に売れました。そのセリフは今でもアナウンサーや役者の発声のテキストになっています。
医業も栄え、中国金元代の医学の影響を受けた李朱医学「後世方派」、「傷寒論」による「古方派」、「折衷派」「蘭漢折衷派」が現れ医学は発達していきます。外科医華岡青洲は世界で初めて麻酔薬、通仙散による外科手術に成功しています。
東海道中膝栗毛ではお菓子のういろうと薬のういろうを間違えて喜多八が食べてしまうエピソードがありますね。