徳川家康
家康は医学に詳しく「和剤局方」や「本草綱目」を読んでいます。
江戸時代,医学薬学が栄えたのは家康が奨励したからでしょう。
生薬の国産化にも力を入れ人参の国内栽培にも成功しています。
江戸の初期には曲直瀬道三の「後世方」が幅をきかせます。
これは中国、元代の名医、李東垣(補土派)、朱丹渓(滋陰派)の医学=李朱医学、という補う方法を中心とする医学でこれが田代三喜、
曲直瀬道三へと 日本で発展していきました。
中国では清代になると、李朱医学から「傷寒論にかえれ」という風潮がでてき、こうした空気は日本にも伝わり傷寒論への認識が高まります。
これが「古医方」です。
傷寒論は後漢の時代、張仲景により書かれました。葛根湯や桂枝茯苓丸など発汗させたり下したりの激しい薬を用います。
二代将軍、秀忠が病気に時、「後世方」の医師は治せなかったのですが
「古医方」の永田徳本が激しい薬で治しています。
これを機に「古医方」は勢いをつけるのですが、そうするといいとこ取りの「折衷派」が出てきます。
またオランダからは所謂西洋医学が日本に入ってきます。これが「蘭方」です。
「蘭方」に対して従来の日本の医学は「漢方」と呼ばれるようになりました。
ここで「蘭漢折衷派」が出てきます。華岡青洲は烏頭(うず)、曼陀羅華などを処方した麻酔薬「通仙散」を使い乳がんの摘出手術を行い、術後には体力回復のため人参養栄湯を使用しています。
今では
保険に収載されている漢方薬というのは、葛根湯や桂枝茯苓丸のような「傷寒論」が出典のもの、補中益気湯のような「後世方」がよく使った処方が、ミックスして存在します。
今でも傷寒論でなければ漢方ではない、と傷寒論を勉強されている先生は、日本にも中国にもいます。
僕のような留学組は中国伝統医学(中医学)、中国で進化してきた医学を勉強している人もいます。
夜尿症を傷寒論の麻黄湯で治す「傷寒論」の先生がいますが、僕から見れば「ミラクル」です。
どの宗派がいい悪いということは無いのですが、
同じ病気でも派が違うと捕え方が異なり処方が違ってくることがあります。
お互いが「あれは違うこれは違う」ではなくどうしてこの漢方薬が選択されたか
謙虚に理解し合うべきです。
今 漢方、中医を勉強されている薬剤師さんに希望することは生薬薬理だけではなく、この処方の出典、時代背景も調べてもらいたいということです。